チーム医療のくすり(その10)

どーもです。

俳人な心境なアキヤマです。
ここで一句。

夏桜 名こそ惜しける 散り忘れ

いや~、選挙が終わりましたねぇ。
僕がどこに投票したかはさておき、私を選ぶか彼を選ぶかが大事だったのではないのでしょうか?
それがいつの間にかみんなの希望をかなえるのが私の仕事です。どうしてそんなに軽い口になれるのでしょう。政治は言葉で始まり、結果で終わる。そんな風に僕すなわちアキヤマは思っています。メニーメニー増税されました。一応は変わってないらしいですが、何度も去年の納税書を見る限り、やはりどうしても増税されているように思われます。

数字は正直ですから不思議です。
言ったことを忘れられるトップって不思議です。
前言を撤回できる感覚って不思議です。

日本人である僕はドンくさいかもしれませんが自分の責任を貫く頑固者でありたいと思います。
すみません、大人の表現をしてしまいました。そこまでしてごまかすの?
すみません、言い訳好き、ごまかし好きって僕の知っている日本人の感性を変えたいの?
すみません、昭和まで、脈々とつらなる日本を捨てなきゃいけないの?
美しい日本って、きっとそれは正々堂々といさぎよいことなのではないですかと。
すみません、聖徳太子の“和をもって尊ぶ”これを否定しないといけないの?

口先だけの常識はわかりません。わかりたくない日本人な僕です。

そこまでして何が何でも、要は尊敬されたいだけなのかな?団塊の戦った世代とは違い、カッコつけの50代、しらけ世代の50代のこの私は、美しいという言葉でごまかしたいのでしょうか?
すみません、正直者が戦うことを許さない、戦えないのは美しいのでしょうか?
すみません、着飾ってごまかすことのできない日本人なアキヤマです。


僕は医療人です。必死に予測をして、必死に分析、診断をし、患者さんと共に一緒に結果を出す。これが僕の仕事なのです。予測と反した場合、その事実を素直に認め、正直に患者さんともう一度戦って頂けないか真摯に立ち向かうしかないのです。それが医療なのです。そしてそれが医療人のあるべき姿と、僕は思うのです。

美しいと着飾るキリギリスのようにごまかすなんてことはできません。アリのように、ドンくさくても患者の健康を回復するため考え行動するしかないのです。もしそれができなければ“いさぎよく”(責任)をとるしかないのです。ドンくさいのかもしれませんが、コスガとの出会いによりそこを強く理解しました。コスガの言っている意味が40にして、中年になってわかることができたのです。昔の人はいい言葉を残してくれました。

“40にして惑わず”

うらやましいものです。50にして着飾れるのですから・・・。
美という言葉が耳に入るたびにいかに着飾るのか、事情はわかりません。男子たるもの一度吐いたつばをまた飲める心境、~医療人の僕にとってはこれっぽっちも美しくありません。一度吐いたつばを飲み込むことは、事情はどうであれ不潔、と僕には思われるのですが、どうでしょうか?
事情がどうであれ、仮にその哲学が正しいとしても、時が止まらないよう過去、現在、未来が紡がれるよう、馬謖の思いでつなげることのほうが正しい意味であるいは本当の意味で美しいと思われるのです。それが責任というものだと思います。このこだりを繋げること、そして紡ぐ事が、チーム医療のあるべき姿だと思うのです。

これがもしかしたら本当の意味でチーム医療になるのかもしれません。

そして、その運動のこだわりが、本当の意味のチーム医療へ成長させると僕には思えます。

よろしければ次の章へどうぞ。

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